少しだけ、正直なことをお話しさせてください。
私はいつも傾聴のことをお伝えしているけれど
最近ふと気づいたことがあるんです。
それは、
「私は本当に、傾聴に興味があるのだろうか?」
ということ。
私が本当に気になっていること
相手の話を聴くこと。
気持ちをわかろうとすること。
アドバイスを急がないこと。
沈黙を大切にすること。
もちろん、それらは私が大切にしていることです。
けれど、本当に気になっているのは、
「聴き方」ではなく、
もっと奥にあるものかもしれないな、と。
たとえば、こんな経験はありませんか?
アドバイスをもらったわけでも、
答えが出たわけでもないのに、
誰かに話を聴いてもらったあと、
自分の気持ちが少し見えてきた。
逆に、「こうすればいいよ」と
わかりやすい答えをもらったのに、
なぜか心が動かなかった、という経験。
もちろん、答えや励ましに
助けられることもあります。
けれど私自身、
評価されずに話を聴いてもらう中で、
目の前が少し開けたように感じたことがあります。
これって、不思議だと思いませんか?
あのとき、
私の中で何が起きていたのでしょう。
誰かに深く理解されたとき、
その人の中で、いったい何が起きているのか。
理解するとは、そもそもどういうことなのか。
答えは、どこから生まれてくるのか。
そして、人とはどんな存在なのか。
傾聴を入り口にして
私はずっと、そこに惹きつけられているんだと思います。
それは「聴き方」ではなく、
技法の向こうにあるもの。
まだうまく言葉にならないんですけど、
私が見つめているのは、
「人が自分自身に出会っていくプロセス」
とでもいうのかな、と思っています。
深く理解されるとき、何が起きているのか
ロジャーズは、
深く理解されることの効果について
書き残しています。
その趣旨を私なりに表すと、
次のようになります。
誰かが自分の話を評価せず、
自分の世界に入って
理解しようとしてくれるとき、
人は、自分自身の心の声を
より注意深く聴けるようになる。
そして、自分を少しずつ
受け入れられるようになっていく
※参考:C.R.ロジャーズ(1975)『Empathic: An Unappreciated Way of Being』(筆者による要約・意訳)
私がこの言葉に惹かれるのは、
誰かに理解されることで、
自分でも自分を理解していける、
というところです。
「自分自身に出会う」ということ
それは必ずしも、
隠れていた「本当の気持ち」を
見つけることではないと思います。
自分の中にある迷いや矛盾に気づくこと。
まだわからない自分を、
わからないまま受けとめること。
これまで十分に触れられなかった体験に、
少しずつ触れていくこと。
今の私は、そうした過程を
「人が自分自身に出会っていく」
という言葉で表したいのだと思います。
これは、今の時点での私の理解です。
これから傾聴を続けていく中で、
また少しずつ変わっていくのかもしれません。
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