短い夏休みが終わり、子どもたちは今週から2学期がはじまりました。
わが家には高2長男と中3次男がいるのですが、長男はコロナ休校明けから不登校を選択しています。(そのいきさつは省略しまして…)
夏休み最終日、学校について長男にたずねました。
「今後どうする?今はどう思ってる?」
「…は~」(ため息)
「は~…って感じなんだね。は~っていうのは…?」
「その話はしたくない」
「そっか、話したくない気持ちなんだね。わかった。ありがとう」
本当は彼の考えを知りたかったのですが、話したくないと言われれば、それ以上どうしようもありません。(苦笑)
彼は「話したくないという気持ち」なのですから。
それがわかっただけで良しとしました。
聴きたいのか聞き出したいのか
私は子どもの話を聴くとき、あえて「きかない」選択をするときがあります。
それは私自身が「聞き出したい」と思っていることに気づいたときです。
話を聴くというのは「あなたにとってどうなの?」を聴くこと。
つまり相手が主体です。
目の前の人が何を感じているのか、どんな気持ちなのか、何を伝えたいのか、に焦点を置きます。
自分の知りたい欲求を満たすためではないんですね。
「話したくない」と言われたら、その気持ちをそのまま受け止めます。
もちろん、いつもいつもそういう聴き方をしているわけではありません。
普通の会話を楽しむときは、聞きたいことを自由に聞いています。
今回は傾聴という聴き方に限ってのお話。
といっても、線引きが薄くなるときもあります。
聞き出したいのは、たいてい「親である私」のとき。
心配や不安がついて回り、心が揺れ動くのです。
その揺れを感じながら「聴く」と「聞く」を選択する日々です。
さて、長男との会話でどうしても気になったことがあったので、確認しました。
「話したくないっていうのは、自分でもまだよくわからないから話せないってこと?」
答えはYES。
よかった…
「お母さんには話したくない」だったらどうしようかと思いました。笑